[4723-2] 谷川うさ子 2017/03/02(木)15:04 修正時間切れ
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この「音読み」と「訓読み」とを比べてみて、その意味を辞書で調べてみると誰にもすぐに分かりますが、「会社の仕事」「学校教育」「国の秩序」「男と女の人間関係」「社会をふくむ公的な共同世界」をつくっているのは「音読み」の「カ」とその「字義・語義」です。 名詞、抽象名詞の場合を「概念」といいます。 「概念」とは、理論や論理思考の「材料」です。 「人間は、どんなことも理論がなければ、行動しない」とは、吉本隆明が語った言葉です。 ●日本人は、名詞、抽象名詞の言葉は全く憶えられない
しかし、日本人の「動詞文」の「動詞しかしゃべらない人」には、吉本隆明のこの言葉は、全くあてはまりません。 「概念」(音読みの名詞、抽象名詞)の言葉は、「メタ言語」(脳の働き方、言葉の生成のしくみ)からみると「空間性」の言葉です。 日本語(ひらがなの言葉・和語・ヤマトコトバ)の「動詞文」の「動詞」は、「時間性」の言葉です。 ポルソナーレのゼミ生以外の人には、「空間性」とか「時間性」といっても、日常では全くなじみがないので、この言葉を目にしても、寒い日に吐いた白い息のように消えてしまうでしょう。 この言葉を耳にしても、紅白歌合戦で日頃聞いたこともない歌を聞いたときよりももっと早く眠気を感じて、退屈のあまりあくびがこみ上げてくるでしょう。 多くの日本人のこのような言語感覚を当てにして、「音読み」はそこに存在しないかのようにただ「ある」だけの言葉と字義(語義)になっています。 吉本隆明の『共同幻想論』をみると、「訓読み」とは、「狐憑き」の「狐」(きつね)に相当することが分かります。稲荷(いなり)鮨の「キツネ」でも、稲荷神社の「狐」(きつね)でも同じです。 「音読み」の名詞、抽象名詞の代わりに、「訓読み」で読む、「訓読み」の解釈の意味を自分の行動の目的にする、ものごとの内容を分かる判断の材料(データ)にする、というようにしてつくったのが「狐」です。
●「わたしは狐」と「精神分裂病」は同じ
明治の前までは、「わたしは狐の言うことがよく分かるぞ」と言う人の話しを聞いていました。 明治になってからは、「わたしこそが狐であるぞ。うまい飯をもってこいや。うまい酒をもってこんかい。おもしろい娯楽をもってこんか、こら」というように日本人の誰もが「狐」になってしまいました。それが「訓読みで読むこと、訓読みでものを考えること、訓読みでしゃべること」です。 いいかえると、「訓読み」でしかしゃべらない人は、例外なく認知症(痴呆症)になりました。 音読みの名詞、抽象名詞は、全く憶えないので、「訓読み」(動詞文の動詞をしゃべること)は、そのまま「行動の止まり」を脳の働き方にしているからです。 「訓読み」(動詞文の動詞しかぜったいにしゃべらない人)とは、イコール「精神分裂病」という精神疾患をあらわす人です。 日本人の精神分裂病は、第一期、第二期、第三期までをつくります。 ●精神分裂病は「死(他界)の四つの行程」と対応している
はじめは分かっているフリをして社会の中の仕事とか勉強の話を聞く、読む、というのが「第一期」です。「自分は狐」ですからこの「フリ」という「だまし」をおこないます。次に、社会の中で行動したり、しゃべったりするので「分かっているフリ」が「こんなこと、やってられるかい」と反感や敵意をあらわすようになります。これが「第二期」です。 ここでは「行動の止まり」と「生存すること」の相反することがつくられます。それが心・精神の病といわれる身体症状です。身体に疾患があらわれます。 病院に行って薬をもらい、たまに休んで、時には休職して、さらに、「このままずっと家の中でおいしい生活を楽しんじゃお!」と「狐」の日々を過す人もいます。それを保証するのが「身体」の疾患です。脳の言語野の空間性の言語領域が働いていないので免疫を中心とする生体防御システム(セントラルドグマ)が破綻します。これが身体の疾患(症状)です。 この疾患は、「すぐにはパッと死なない」という性質をもっています。 自己免疫疾患にしろアレルギーにせよ、脳梗塞、脳卒中にしろ、これは「自分のことをお世話しなさい」という根拠になります。いい薬もあるので、いつもいつも痛いとか辛いということはありません。 これを「死(他界)の四つの行程」といいます。 精神分裂病の第一期、第二期、第三期に対応しています。 要介護は、第三期(四つめの行程の段階)に当ります。 |
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