[3793-2] 谷川うさ子 2015/10/21(水)10:55 修正時間切れ
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平成27年10月18日の日本経済新聞「日曜に考える」欄に認知行動療法研修開発センターの大野裕がこう書いている。 「ウェブサイトに動画を追加した。このとき、ビデオカメラの前で話したが、カメラは何も反応しないので、話す自分の表情も硬くなった。人間は、互いの表情、態度に反応しながら考えを伝え合っている。ここで自然な会話が成り立つ。 非言語的なコミュニケーションの大切さに気がついた」。 この大野裕の説明には、フィンランドのエパイルスの言う「社会的なつながり」とか「社会性をもつ言葉、行動」という「認知」は無い。 この説明を読むだけで大野裕のいう「認知行動療法」というものはどういものか?が見えてくる。
長岡美代のルポの『介護ビジネスの罠』(講談社現代新書)の話に戻る。 長岡は、「高齢者をゼニ儲けの道具とみる悪徳業者が次々にあらわれて食い物にしている」とは言う。 書かれているルポの現場の姿は悲惨の一言に尽きる。
だが、本当の問題は、紹介したフィンランドの政府が言うように、高齢者の要介護状態、認知症(痴呆症)を予防し、防ぐことに、当の長岡美代も考えを及ばせていないことにある。 多くの日本人は、「言葉の発語の発音」(文字を読むこと)ができれば「社会とのつながり」の「社会」という言葉を「よく分かった」というつもりになる。
多くの日本人は、日本語のもつ構造上の特性のために文字でも文でも、文章でも目にして、読めれば「読んだことになる」と思っている。 「社会」もそうだし、「認知」についてもそのとおりである。「意味は?」と尋ねると「わたしのカンではこういう意味ではないかと…」とか「思いつきの解釈」を説明する。
「認知」とは、目と耳の働きのことだ。 目と耳は、脳の中で「共時」して働く。セットになって働くのだ。 目の働きは「視覚」という。 脳の中では、「右脳・実像」という部位で「感覚」と「認知」の二つのイメージをつくる。視覚は、二重になっている。
「感覚」(視覚の)とは、対象の「色」「音」「動き」のパターンを分かることをいう。「認知」とは、対象の「三次元」の形態を分かることをいう。「認知」は、プレグナンツといって法則、規則、論理を分かることをいう。「左脳・聴覚野」の「言葉」の秩序の認識とむすびついている。 多くの日本人は、大野裕がそうであるように、「視覚」(聴覚も)は、「目の感覚」しか働かせていないから、高齢者の認知症(痴呆症)も「うつ病の人」もその言葉、行動を「認知」する能力が無い。 大野裕がビデオカメラの前で「硬い表情」になるのは、ふだん、会話のときに「相手の顔、目を見ない」ことによる。 作り話とか、妄想を話すときは、「相手の顔、目をぎっと見詰めて、ニラむように、威嚇するように」、しゃべる。
「社会性」とは何か? 人間が、ある組織、ある共同体の中に入って関わりをもつときには、この中の成員と同じ目的のために行動することを「社会性」という。 このとき、同じルール、きまり、約束で行動をあらわす。「倫理」(モラル)という。話し方、聞き方、人間関係のつくり方、生活の仕方に「社会性の能力」があらわされる。 組織、家庭、人間関係の運営にじぶんからすすんでかかわるときが「社会性の知性」である。 |
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