[3676-2] 谷川うさ子 2015/03/19(木)11:16 修正時間切れ
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中学校を卒業するとき、グループのみんなは、このままでいたいねと言い合っていました。 高校入試が終わったころです。 わたしは違いました。何もかも変わった人たちのところへ行きたいと願っていました。卒業する日をひたすら夢にまで見ていたのです。 わたしは、わたしなりに、人間関係は、人の目を見て話すこと、にこやかに笑って話すことに価値があるのではないと考えます。きちんと話せればいいので、明るく話そうが、暗く話そうが、そこに会話の価値があるのではないと考えました。そこで、がんばって話をしようと努力しました。 でも、どうしても会話がうまくいかないのです。 人に自分の気持ちを伝えられないことほど悲しいことはありません。 学校からの帰り道は、高校で同じクラスになった東山冬子さんといっしょに帰ります。 電車も降りる駅も同じです。
東山冬子さんは、すぐに誰とでもうちとけます。帰り道は、電車の中でも、誰かがやってきて話しかけます。 一緒にいるわたしにも話しかけます。わたしが話すと、話しかけた人はサッとあらぬ方向を見るのです。 そして、わたしの顔を見ないで、電車の窓の外か、隣の東山冬子さんの顔を見ながら、わたしへの返事の話をするのです。東山冬子さんは自分に話しているかのように、楽しげにうなづいて聞いています。 バイバイをするときは、そこにわたしはいないかのようになります。電車の中の他の乗客の中の一人という目で見られるのです。
高校の授業の勉強は、むずかしく思えるようになりました。教室で、まわりの人と仲良く話すのがむずかしいと思えることと何か関係があるようにもおもえました。 授業中、先生が授業を楽しくしようとしているのが分かります。脱線して、自分の経験のことを話します。わたしにはこれがよく分からないのです。 今のこの教科書の学習のことと、先生の個人の経験とどうつながるのか?がどうしてもむすびつけられません。先生の話がつまらないというのではありません。クラスの生徒はおもしろがって笑っています。 わたしはひとりだけぎこちなくなって、頭を下げて笑えません。身の縮むような思いがします。黒板に書かれたことは、先生が前にいるとおもうと書きとれないのです。 わたしが学校を休むことなく行けたのは、いつも一緒に帰る東山冬子さんが優しかったからです。 たぶん、わたしは、どの教科も、参考書を見たり、辞書でコトバの意味をほつほつと調べたりしてできるだけ正しく文や文章の意味を分かろうとしたので、先生が嫌いにならずにすんだのかもしれません。 担任の先生は、励ましのつもりで言いました。 「大学に行っても、困ったことになるのは、話しかけても何を考えているのか分からないからだ。一人遊びの世界に入って脱け出せなくなるぞ」。
今川焼子さん(仮名・17歳)の物語です。 「まっすぐ」という言葉があります。日本人の一部の人を除いて「まっすぐに話す」「人の話をまっすぐに聞く」ということができません。 「真直ぐ」と書きます。 少しも曲がっていなくて、真一文字のことです。 どこにも寄らずにまっすぐに家に帰るという言い方をします。 少しもつつみ隠さないこと、正直なこと、が「まっすぐ」です。今川焼子さんは、人の話をまっすぐに聞く、自分の気持ちをまっすぐに言葉で言い表して伝えるということができないということで困っています。 人間は、誰でも、乳・幼児の頃までは、ものを見るにしても、人の言葉を聞くにしてもつねに「まっすぐ」という脳の働き方を完成しています。 ほぼ0歳8ヵ月から1歳半までの時期です。 |
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