[3675-2] 谷川うさ子 2015/03/17(火)13:19 修正時間切れ
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わたしの母親は、お汁粉をつくるのが上手です。小豆の餡(あん)から自分でつくります。餡(あん)を水でのばして、白玉を入れます。 ほんのり甘くて、サラサラの小豆の餡(あん)の口あたりがよくて、学校から疲れて帰ってきていただくとほのぼのと幸せな気持ちになります。 こういうおいしいお汁粉をつくってくれる母親には、いつもベッタリで甘えていました。そういうときのわたしは気分もいいのでにこにこしています。 大学に行くようになると、母親のつくる汁粉がうとましく思えるようになったのです。 本当は、お汁粉を食べたいのに、話しかけられるとブスッとしてつっけんどんな態度をとります。 「おいしいよ、お腹がすいたでしょ、いっしょに食べよう」と言われると苦痛を感じます。 後で、ああ、悪いことをしたなあと後悔します。わたしは、自分でも精神が不安定なのがよく分かります。 いつでも変わらずに優しくて、心温まる笑顔で話せる人間になりたいとおもいます。
学校に行くには電車に乗って通学します。いつも決まった駅で降ります。通学も慣れてくると、同じ顔ぶれの人を見るのに気がつきます。男の人もたくさんいます。わたしは、自分と同じくらいの年の男の人を見るとすごく意識します。男の人とちらっと目が合うと顔が赤くなるのです。自分でも、なんでこんなに顔がカッカとほてってきてみるみるトマトのようにまっ赤になるのか不思議です。そしてとても自分が哀れに、悲しく思えます。
西向夕子さん(19歳・仮名)の手紙です。西向夕子さんの物語は、日本人が誰でも親しんでいる「親疎」の対人意識です。 「親疎」とは、親しい人と話すときは、言葉も態度も「省略する」というものの考え方です。 食堂での会話がいい例です。 「なに食べる?わたしタヌキ」 「わたし、キツネ」 「わたし、ウナギ」 「わたし、ブタさんよ」 ここでは、自分自身がタヌキやキツネ、ウナギ、ブタであると言っているのではないことは、日本人には誰にもよく分かります。キツネうどん、ウナギ丼、タヌキうどん、ブタ丼という言葉が省略されています。 話すことの目的、行動の目的を省略するというのが日本語のつくる「親疎」の共通のものの考え方です。この「省略」は「内扱い」といって、イバリとか見下し、軽蔑や侮蔑の態度をあらわしてもよいと思える相手に向かって言い表わされます。 「内扱い」とは、相手の欲求を察知することです。「自分の気持ちをわかってくれ」という言い方がなされます。相手の気持ちを察する。そのために相手の顔色や表情を見る。すると言葉は可能なかぎり省略される。言い表わされる言葉は一言か二言。これが「内扱い」です。ここでの人間の脳は、視覚、聴覚、触覚のうち、ほとんど触覚の認知だけで行動を成立させます。聴覚は機能障害を起こしたのも同然になります。話されている言葉のほとんどが聞こえなくなります。 触覚とは、人間のほとんどの欲求をつくります。食欲、性欲などです。ここから、過食や拒食が起こります。 |
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