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では、この「思想・哲学」を身につけている人と恋愛をして性的な関係を成立させれば、自動的に「自分」も同じ思想や哲学という知的な精神が「自分のものになるのか?」というと、必ずしもそうではありません。 「良い」「悪い」「優れている」「劣っている」といった選択の能力や、判断力の形式的な水準は高くなりますが、「説明する」「伝える」「表現する」という『言葉の能力』『表現の能力』は、「自分自身の知的な意識」をそのように訓練して習得しなければ身につきません。 この訓練とか習得ということが自覚的にしろ、無意識にせよ、ほとんど毎日、実践を強いられるという立場にはありますから、この意味では、恋愛(結婚も)の《関係性が豊かである》とはいえるのです。 ついでに「第二位の行動にともなう倫理」の《媒介》についてもお話します。 ご存知のこととおもいますが、「倫理」とは「行動」にともなって必然的にあらわれる「秩序意識」のことです。「倫理」としての秩序意識は、政府や地方自治体が立法化して権力の裏付けで施行している社会的な規範の秩序とは全く別のものです。 具体的にどのようなものが「倫理」であるのか?といいますと、Pさんの恋愛のケースで例をあげてみますと、いったん「恋人の関係」になって「別れる」ということになりましたが、この、「別れる」という行動の選択は「倫理」としての秩序意識にもとづいています。 Pさんは、元・彼が「親から説得されて別れることを決意した」と説明しておられますが、「自分の恋愛」を親であれ、だれであっても第三者に話して「相手は別れたくないのに、自分は一方的に別れることに決めた」のは、「自分の行動には自分が責任をもつ」「自分の行動によって、他者に不合理なダメージを与えない」という他者との関係を支える「安定」とか「安心」という、《信用》という内容の秩序の能力がとても信頼できがたい、という評価になります。 恋愛関係にある恋人どうしが「別れる」に至ったというケースはたくさんありますが、この「別れる」という「別れ方」が「倫理」です。ここに秩序意識の形式と知性の内容があるのです。 「倫理」というのは「教育」によって身につけるか、自分の知的なトレーニングによって身につけるかのいずれかで習得されるものです。相手が「別れたい」と申し出て別れることよりも、「自分の気持ちが変わったから別れたい」と申し出ることの方が、「倫理の能力のレベルは低い」のです。「親が別れろ、と言ったから別れたい」と申し出れば、これは「倫理の能力」を支える、「恋愛という関係性」を支えて維持していける知的な能力にはじめから欠陥があった、という評価になります。 |