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●女性が「性をしたい」と自覚するしくみ
「高度化」とは、現実の中の「男」を右脳の《性のイメージ》に採り入れる、という方法のことです。脳神経学的にいうと、「現実の中の“男”」を「オナニーのイメージ」に採り入れると『視床下部』の「性をしたい中枢神経」を刺激して「性腺ホルモン」を分泌させる、という作用がおこります。このホルモンが「生殖器」に伝達されると、「性の快感の知覚」が情報として『右脳』へとフィード・バックされます。この情報が、『脳幹』の“A神経”から『ドーパミン』を豊富に分泌させます。 女性が「オナニーによる性のイメージ」に「現実の中の“男”」を採り入れるということは、「性のイメージ」がより「リアル」に「鮮明になる」ことに意味があるのではありません。それは、「性をしたい欲求の対象」を「はっきり自覚する」ということに本質的な意味があります。 《欲求》には『食欲』『休息欲』が生理的身体に属しているものですが、《性の欲求》も『食欲』と同じように、その実現のために「欲求の意識」が「現実に向かって投射される」のです。「欲求」の本質は、「生きるための必要」が今、欠如しているのでこれをただちに実現させる、というところにあります。これは、《性の欲求》の場合も同じです。《性の欲求》が『食欲』や『休息欲』と違うところは、「生理的身体の生き死に」とは直接、かかわりがないという点です。 《性の欲求》は「心や精神の生き死に」という鬱(行動停止)に関与するのです。 「心や精神の生きること、死ぬことへの関与」とは、肺の自律神経の副交感神経の緊張を生む《無呼吸状態》がつづくこと、その結果《心停止の不安が恐怖に発達すること》です。さらに『左脳』に入ってくる「社会性の知性の対象」の概念を『右脳』で「イメージ」を喚起させられなくなったことが「精神の死」に通じていくのです。 それは、一気に「自死」へとむすびついていかなくても、「分裂症」や「躁病」へと《精神》が異常化されて、ここから『うつ病』へとかけ下って、ここで「自律神経系の症状」による制御が利かなければ《自死》に結実していく、というように妄想をともなって退化していきます。 《性の欲求》は、このような『心』や『精神』が《死》へと傾斜していくことを防ぐというところに根本的な本質があります。「オナニーの体験のある女性」は「無呼吸状態」から生まれる《心停止の不安》が、《心停止の恐怖》に変わっていく不安定さに動揺して深刻に欲求を自覚するのです。《性的な欲求》は、すでに「性的な体験」(性行為)をもっている「女性」よりも未体験の女性の方が切実に心停止の不安の回避の必要性として自覚します。 《性的な欲求》を自覚した「オナニーを体験している女性」は、「オナニーのためのイメージ」の中に「特定の男性」を思い浮かべたかどうかとは全く無関係に、「性的な欲求の対象」としての「男性」に向けて「欲求の意識」を《投射》させます。 ふつうの言い方をすると、「好きな男」「好きになれそうな男」を探して、物色するのです。「女性」が(男性も)、「あの人が好きだ」「あの男を好きになった」という言葉の表現をしますが、このときの「好き」という言葉には、「自分の“心臓”の心拍の低下を緩和させるために“性交”をしてくれそうな男のことである」というように、どこまでも『生理的身体』の物理のレベルに限定した「引き寄せ」と「アプローチ」の意味しかありません。 つまり「心や精神」の次元で「好き」なのではなくて、『食欲』や『休息欲』と全く変わらない性質での「好き」という言葉の意味であるのです。したがって、極端にいえば、このときに「物色される男」(=性の対象)とは!誰でもよいのです。 このことは、「無呼吸状態」になって、『心停止の不安』を、身体の「機能的な原因」か、「器質上の原因」かのどちらかの理由で意識せざるをえない「女性」は、たとい、『性の体験者』であっても、この女性にとっては『心停止の不安』の解消をつねに欲求していますから、「誰でもいいから一日も早く、毎日“性の関係”をもちたい」と無意識に考えていることになります。 |